ダークナイトの中にいる、哲学者カントを探せ -哲学で映画を見よう-

 

 私は大学生の頃、めっちゃ映画が好きでよく見ていたのですが、そんな私を映画好きに引きずり込んだのが映画評論家の町山智浩さんの映画『ダークナイト』評。 

これは、本当に、評論としてというより、一種のエンターテイメントです。評論なのに、それ自体が面白い!!本当に、観る前に聴くと映画を観たくなり、観た後に聴くとさらに映画を楽しめる内容です。

町山さんは、高校時代に哲学書を読め読めと先生に言われて読んでいたみたいですね。

でも確かに、映画ってとても深読みできるし、洋画なんかは特に登場人物の思想が深く作りこまれて個々のキャラクターに強く反映されているものも多くあるので、哲学とも相性は良いと思います。

何より、クリスチャンの多いアメリカ映画だと、無意識に監督のキリスト教色がストーリーに反映されていたりするから尚更。哲学も、中世以降はキリスト教に影響を受けまくりなのでまさに相性抜群。

哲学、オススメですよ。映画を好き勝手に解釈するとき、より楽しめますよ。

 

そして映画を好きになるきっかけにもなった『ダークナイト』、以前この作品をテーマに一般教養(学科の専門的な授業ではなく、どの学部でも取れる授業)の哲学でレポートを書きました。今回はそれを少し加筆修正して載せます。一般教養の授業だったとはいえ、哲学のレポートを読んでいただくことで、哲学についても、また映画『ダークナイト』の魅力についても伝われば幸いです。

ちなみにカントの倫理学で考察しています。

※激しくネタバレしています。

まだ観ていない人、ネタバレ嫌な人は注意してください。

 

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【カント哲学について】

以前下記の記事内で紹介していますが、哲学科にとって第一のラスボス、カント。

mariminor.hatenablog.com

哲学者の倫理感も様々なのですが、哲学のラスボスカントの倫理感は半端じゃなく厳しいです…。まずそれについて書いてあるのがこちら。(太文字、大文字は当時のレポートにはありません。読みやすくするために加えています。また所々わかりやすくするため書き換えたり書き加えたりしています。このままの形でレポートを提出したわけではありませんのであしからず)

 

レポート原題:映画『ダークナイト』にカントはいるのか?

 

カント哲学はとても厳格だと言われている。それもそのはずで、カント哲学の、特にカントの倫理学は、とにかく守ることが難しい。電車の中で誰かに席を譲る行為は、世間的には良いことである。しかしカントは席を譲るその行為だけではよしとしない。「善意志」、これこそがカントの道徳において大事なものである。カント倫理学は動機倫理学である。例え電車で誰かに席を譲っても、その動機が「他人からよく見られたい」などではその行為はまったく道徳的とされない。結果、席を譲られた人が喜んでも関係ない。その行為をした本人の動機、そこが肝心なのである。「善意志はそれが遂行し成就するところのものによって善なのではない。(中略)善意志は、実に意欲そのものによってのみ換言すれば、それ自体として善なのである」(カント『道徳形而上学原論』より引用)。有名な定言命法(無条件の行為)、仮言命法(条件付きの行為)、これも動機倫理を表している。「もし~なら」という仮言命法で行為をしてはいけない。ひたすらに道徳法則に基づいた「そうすべきだからすべき」という定言命法にしたがって行為しなければならない。しかし、そんなことは可能なのか。また具体的にはどういう状態なのか。今回、カントの倫理学を、2008年に公開されたアメリカ映画「ダークナイト」を通してみていきたいと思う。この「ダークナイト」にカントの倫理を適応できる人物はいるのだろうか。

 

 

【ジョーカーはカントであるか?】

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ダークナイト」はクリストファー・ノーラン監督によるバットマンシリーズの第二作目である。ストーリーは、アメリカの架空の都市ゴッサムシティで、今は亡き両親が守ろうとした街のために戦っているバットマンと、その敵であるジョーカーの対決の映画である。ジョーカーは、銀行強盗を行い、病院を爆破し、市民と囚人がのった船に爆弾を仕掛ける。バットマンの幼馴染を殺し、市長の命も狙う。このジョーカーという人物はとても強烈で人気があるのだが、特に彼が犯罪をする動機が興味深い。ジョーカーは金のために犯罪をするのでも、誰かを憎んでいるからでもない。知名度のためでも何か欲しいものがあるわけでもない。彼の犯罪の動機は、「人間というものは心の底には悪意がある」ということを証明するためである。彼は、人々の「善」を信じるバットマンに対し、「そんなものはないのだ」、つまり人間の心の底の悪意、「根本悪」を示そうと犯罪をするのである。ジョーカー自身が多数の犯罪を行い、人々にも同じことをさせようとする。それは「結局、どんなに偽善ぶっても、人間は自己愛の塊だ」ということをみせしめるためである。彼はまるでカントのように人々に疑問を投げかける。「お前らは自己愛の塊だ」、「根本悪」を持っているのだと証明しようとする。なんてカント的なのだろうか。しかし、彼の主張は「善などない」、というものだ。提起するのはとても哲学的なのだが、やはり彼は「悪」であり、カントではない。

 

バットマンは道徳的か?】

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映画の中で、ジョーカーがバットマンへ選択を迫るシーンが印象深かった。バットマンはレイチェルという女性を愛していた。しかし、彼女はハーヴィーという別の恋人がいる。彼はゴッサムシティの検事で、いわば公の英雄である。ジョーカーは二人を誘拐してバットマンに「助けるならどちらを選ぶか」とぞれぞれの場所を教えて選択を迫る。バットマンはレイチェルを助けに行き、バットマンの仲間がハーヴィーを助けに行くのだが、ジョーカーはわざと、レイチェルとハーヴィーのいる場所を反対に教えるのである。バットマンが助けに間に合ったとき、そこにいたのはレイチェルでなくハーヴィーであった。結局、ハーヴィーは助かり、レイチェルは死んでしまう。ジョーカーが何故二人の場所をわざと逆に教えたのか。ジョーカーは、この選択を迫ることでバットマンの偽善を自覚させたかったのではないか。ハーヴィーは市民の英雄、検事、いわばゴッサムシティの希望である。しかしレイチェルはどうか。彼女は一般の市民である。バットマンは街を守るために戦っているのならば、助けるべきはハーヴィーである。しかし、バットマンが本当に助けたかったのはレイチェルであったのだろう、結局、レイチェルが助かって、恋敵が死ねばよいという自己愛で戦っており、お前は「善」なんかではない、とバットマンに突きつける。その後、ジョーカーはバットマンがいる限り人を殺し続けると宣言し実行する。バットマンは自分の所為で大勢人が死に、愛するレイチェルをも失ったことで、「自分のしてきたことは間違っていたのか」と悩み、問うのである。今まで自分は正しいことをしてきたと信じてきたバットマンが、自分の行いについて悩み、苦しむ。しかし、市民からも糾弾され、愛する人も失い、それでも彼は善を信じて戦うしかないのである。ジョーカーは言ってみれば「悪」である。その悪がいるからこそバットマンは戦う。バットマンがいる限り、ジョーカーもいる。しかし、それでもバットマン「善」を信じて戦い続けるのである。ここで、中島義道さんの本の中のある一節を思い出す。「根本悪のもとにあるからこそわれわれは道徳的でありえるのだ。根本悪の絶対的引力を知っているからこそ、われわれは最高善を求めるのだ」中島義道『悪について』より引用)本当の「善」行為などできるのだろうか。バットマンは悩むが、それでも彼は戦い続ける。「しかしここで問題になるのは、あれこれの行為が実際になされるかどうかということでなくて、およそ理性がいっさいの現象に関わりなくそれ自体だけで何が為されるべきかを命令するという信念である」(カント(篠田英雄訳)『道徳形而上学言論』より引用)。バットマンの生き方は悩み苦しみ、それでも「善」を信じている。とてもカントの倫理学の道徳的な生き方に近いが、彼は「ゴッサムシティのため」という仮言命法が付きまとう。惜しいけれど、彼もカントではなかったようだ。

 

【ハーヴィ・デントはカントになりえたのか?】

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ハーヴィー・デント、どこまでも「正義」に近い男。彼はゴッサムシティの検事である。彼は「悪」を憎み、裁かれるものだと信じていた。「正義」を何よりも重んじ、彼自身が「正義」、「善」そのものであった。「そうすべきだから、すべき」彼はまさに定言命法とも言えるほど「正義」という強すぎる「善」の中心にいた。彼はまさしくカントが求めた道徳的行為に最も近い男のはずであった。だが、彼は映画の中盤、恋人のレイチェルをジョーカーに殺され、自身の顔の皮膚を半分失う。 その上、市民を守る「正義」の仲間であるはずの警察官達の数人が、ジョーカーに加担していたことを知る。もし彼自身が本当に「善」であり「正義」を何よりも重んじていたなら、彼はどんな状況でも変わらないはずであった。しかし、彼は「悪」に落ちたのである。まさにジョーカーが証明してみせたかった人間の根本は「悪」であるということを、「正義」だったハーヴィーは体現してしまった。レイチェルが生きている間、検事として「悪」を裁いていた間、彼は「善」であった。しかし、レイチェルが死に、顔の皮膚を失い、仲間の警察に裏切られた結果、彼が変わったということは、彼の「正義」や「善」は、条件付きだったということになってしまうのだ。

カントの倫理学が厳しいのはここにある。どんな状況でも、誰であろうと、「そうすべきだからすべき」なのだ。どんなに今まで善い行為をしてきたハーヴィーでさえ、彼が「悪」に落ちた瞬間、彼の今まで行ってきた行為は自動的に「善」でなくなるのだ。なぜなら、彼がそうあったのは、彼自身が幸せだったからできた、という条件がついてしまうからである。ハーヴィーほどの不幸にあったなら、許されないのか。今まで悪をさばき「善」を体現してきたのだ。恋人を殺され、顔の皮膚を失い信じていた「正義」に裏切られた男だ。誰でも「悪」に落ちてしまうのではないか。だが、ダメなのだ。カントは決して許さない。「そうすべきだから、すべき」である。カント倫理学であれば、どんな状況でも、ハーヴィーは自身の「善」を貫くかなければならなかった。ハーヴィー・デントはカントに一番近い存在であったと思われたが、一番遠い存在になってしまったのである。

 

【カントは意外なところにいた?】

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バットマンの映画の中にカントはいないのだろうか?しかし私は一人だけ定言命法を行った人物を発見した。それは、意外なところであった。ジョーカーの計画で、危険なゴッサムシティから出るために大勢の市民が乗った船と、大勢の囚人が乗った船、それぞれに爆弾が仕掛けられた時である。市民の方には囚人の船の爆破スイッチ、囚人の方には市民の船の爆破スイッチが渡された。ジョーカーは、どちらかが12時までにスイッチを押せば、押した方は助けてやるという条件を出す。自分たちが助かるためには、相手を殺さなければならない。この時市民たちは、囚人なら死んでも仕方ない、自業自得だ、とスイッチを押そうとし、囚人達も自分たちを虐げてきた連中は死んでもいいと、スイッチを押そうとする。しかし、結局どちらも相手が死ぬことを思うと怖くて押せない。残り二分になった時、囚人の一人がスイッチを持った看守に近づき、自分に寄越すように迫る。「お前には人を殺せない。おれに無理やり奪われたと言えばいい」と言い看守からスイッチを受け取る。おそらくスイッチを渡した役人も、彼がスイッチを押すと思ったのではないか。人を殺すという重圧を、代わりに負ってくれるようなセリフである。しかし、囚人はスイッチを受け取った瞬間、窓からそれを投げ捨てるのである。そして静かに元いた場所に戻っていく。

 

もしかしたら、彼は自分が犯した罪をこれで償いたかったのかもしれない、もしかしたら、彼はどうせ死ぬからとスイッチを捨てたのかもしれない、彼の中の「自己愛」を見ようとすればいくらでも見られるだろう。しかし、彼はスイッチを捨てる前に言った。「それを渡せ、お前が10分前にやるべきだったことを、おれがしてやる」、と。そうすれば、相手の船は爆発しない。この一瞬、彼は定言命法にしたがって行動したのではないだろうか。カントはいた。ジョーカーでもバットマンでもハーヴィーでもなかった。たった一人の囚人こそ、カント倫理学にもっとも近いところにいた。道徳的に善く生きることは不可能である。それでも道徳は一瞬だけでもこの囚人に現れた。

 

【『ダークナイト』とカント哲学】

カント哲学を『ダークナイト』を通してみると、よくわかる。道徳は持続することは不可能である。しかし、道徳的善さを求めて生きていれば、一瞬だけでも道徳的になれる。スイッチを捨てたこの囚人のように。その後、バットマンのように、自己愛の苦しみに陥ってしまって、「悪」という暗闇で必死に目を凝らし、絶えず道徳的善さを求めて生きなければならないかもしれない。しかし、その一瞬一瞬が、道徳という希望で私たちを照らす。バットマンゴッサムシティに希望を抱き続けるように、道徳的善さという光に、一瞬でも照らされることを求めて生きなければならない。生きている限り、道徳を追い求める運命にある理性的「存在者」だからである。バットマンは、作中の最後で、暗闇に溶け込んでいく。それでも希望を抱き続ける。バットマンはスーツを着ることで超人的なパワーを持つヒーローである。しかし、彼自身もがき苦しみ、それでも道徳的に生きようとする一人の人間である。カント哲学は厳格である。それはカント自身が誰よりも「善」を求めてやまないためなのかもしれない。

 

【引用した本】※光文社文庫は違いますが、カントの読みやすい(といっても難しいけど)新訳なので載せました。

 引用したのは岩波文庫の方です。

中島さんの本は普通に面白いのでオススメ。

読みやすいし、こじらせてるし、カントをわかりやすく説明してくれています。

 

 以上、お粗末さまでした。

 ちなみにハーヴィー・デントの章は、レポートにはなかったのですが主要人物なので書き足しました。

 

どうでしょうか。こんな風に、それぞれ当てはめて考えられたりするので、楽しいですよ。哲学しましょう。そして映画も見ましょう。(強引)

クリストファー・ノーラン監督は、英文学専攻でかなり映画も作りこんでいる上、最近のアメコミは「正義」や「悪」といったことが複雑に絡んでいるので哲学を絡めてみると個人的にめちゃめちゃ楽しめます。おすすめ。

もちろん、正解なんかありませんので、物語をより楽しむために、です。

あなたが映画や物語をより楽しむためにも、哲学是非どうぞ。(強引な勧誘)

 

そして映画も是非どうぞ。

町山さんの本も是非是非どうぞ。