「これは自分の所為じゃない」という優しい生き方ー妖怪と江戸の精神構造ー

江戸時代がどうして好きかは前回の記事で語りました。

mariminor.hatenablog.com

江戸時代が好きなったきっかけのひとつ、大学時代に受けた怪談文学の授業で習った、江戸時代の精神構造の高度さの魅力を、今回は書いていきたいと思います。

私が受けた授業の受け売りで、かなーり独断と偏見に満ちています。少しでも私が魅力を感じている江戸時代の精神が伝われば幸いです。

 

江戸時代の人は、生き上手。

現代の私たちも取り入れて、この世を思い切り楽しみましょう。

 

「幽霊はいない」と知っていた江戸の人々

怪談文学で先生がよく言っていたのが「君たちさ、江戸時代よりも今の方が進んでると思ってる?それ完全な間違いだから!」というものでした。

 

進歩史観、これは現代、今の時代の方が、昔よりも進んでいる、という考え方のことです。しかしこれは、かなり高慢な考え方ですね。ところが現代に生きる私たちは、この「進歩史観」を無意識のうちに持っていたりします。

 

先生がよくおっしゃっていたのは「江戸時代の精神構造はかなり高度。平成になって、日本はやっと江戸時代の水準に戻ってきつつある」ということです。これには賛否あると思いますが、江戸時代の精神構造が高度だったのは江戸時代を学ぶにつれて納得しました。

 

まず、昔の日本で幽霊は信じられていたのか?ということについて。

現代は科学が市民権を得て、超常現象などは科学などで説明がつくようになりましたよね。では、科学が一般的でなかった江戸時代では幽霊は信じられていたのでしょうか?

 

信じられていました。

 

ただし、「嘘もの」だと分かった上で、信じられていたのです。

私が習った授業では、怪談文学の中で、「幽霊は嘘である」と江戸時代の人が分かっている記述をいくつか見ました。例えば「雨月物語」、ここにでてくる話では、化け物や幽霊の元は「人間」であるという話がいくつか出て来ます。

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

改訂版 雨月物語―現代語訳付き (角川ソフィア文庫)

 

 さらに、江戸時代には幽霊を作るおもちゃが開発されていました。

つまり「ユウレイは作れる!」(聞いたことある。これもある意味「虚構」ですね笑)というスタンスで生活してたんですね。

さらに江戸時代は妖怪ブームが起きたのですが、妖怪ってつまりキャラクターです。

キャラクターブームが起きたと考えると、現代のゆるキャラブームなどにも通じますよね。ポケモンなども妖怪の一種と言えます。

そして何と言っても「妖怪ウォッチ」!

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江戸時代の精神構造として「悪いものは自分以外のもの」という考え方があります。

これ、悪いことは人の所為にする、って意味じゃありませんよ?

あくまで「自分の所為ではない」という考え方です。

悪いものや怪奇現象は、妖怪が起こしたこと、という考え方をしていたのです。妖怪ウォッチも「やる気がでない」と思ったら妖怪につかれていた、なんてエピソードがありました。まさにそれ!!

「怖いもの、よく分からないものは、全部妖怪の所為!」

この考え方は、後で書いていますがとても重要なことなんです。

 

もちろん、まるっきり妖怪を信じていたわけではありません。

以前の記事でもお伝えしましたが「虚構」と知りつつ、楽しんだのです。 

授業ととても似ている内容が書かれています。読み物として面白い。

 

妖怪をキャラクター化した、姿を描いたのはこの鳥山石燕。現在の私たちが知っている妖怪の姿はほとんどこの人が描いた絵に基づいています。

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

鳥山石燕 画図百鬼夜行全画集 (角川文庫ソフィア)

 

 こちらは、元祖妖怪画家の鳥山石燕の画集。文庫サイズ。

 

 

「これは自分の所為じゃない」という優しい生き方

 さて、タイトルの「これは自分の所為じゃない」という優しい生き方、についてですが、「自分の所為じゃない」という気持ちを持って生きるのは「優しく」なれる生き方なんです。

どういうことかというと、分かりやすい言葉が「罪を憎んで人を憎まず」です。

事柄と人間をイコールで結ばない生き方。

 

江戸の人が幽霊、妖怪を「虚構」であると分かっていながら「居るもの」として信じていたのは、楽しいからだけではありません。おそらくですが、「無意識の防御」だったんです。 

まず、何か悪いこと、分からないことが起きた時、人は恐怖や不快感を感じます。江戸時代はそれを「妖怪の所為」にしていました。

 

小豆洗いという妖怪がいますよね。

 

意味わかりませんよね。

 

川で小豆洗ってるだけの妖怪です。

 

意味わかりませんよね(二回目)。

 

でも正直、川で突然小豆洗ってる音が聞こえたら、若干怖いですよね。

だって誰もいないはずなのに、ってなるとなおさら。

 

ところが!

「...あれ?これ、小豆洗いじゃね?」

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というふうに原因を知っていると、不思議と恐怖というのは薄れます。怖いけど「あ、これ知ってる現象かもしれない」というのは、精神の安定にとって、かなり大事なことです。

 

しかし、明治時代になり「幽霊や妖怪などはいない。それはすべて精神病だ。弱った神経が見せる病だ」と考える風潮になったのです。妖怪や幽霊を信じるよりも「精神病」という名前の方が、説得力はあります。そちらの方が「有り得る」話ですからね。なんだか、響としても賢そうにも聞こえますね。

実はこれ、とても危険な考え方なんです。

 

江戸時代は、恐怖を自分の外に置いておくことができました。妖怪や幽霊の所為にすれば、恐怖の原因は自分ではなく、外にあることになるからです。

ところが、明治以降の「幻覚を見るのは精神が病んでいるから」という考え方は、一見解決しているように見えて、実は恐怖を自分の中へ取り込んでいるのです。

 

そうなるとたまったもんじゃない。「悪いのは自分」という考えになり、恐怖は自分の内側へ入り込んできてしまいます。こうなったら、もう対処できません。だって自分の中に入り込んでしまったら、外にあるものより格段に対処が難しくなるからです。

興味深いのが、この「怪奇現象は精神病説」を明治期に唱えていた落語家、浮世絵師、作家などの大勢が「精神病」になって、亡くなられているんです。

 

前回の記事で江戸時代の人が合理的だったというのはこの部分にあります。

私が江戸を好きな理由(ワケ) - るきうす、あんなの三文オペラ

江戸の人々がはっきりと意識していたかどうかはわかりませんが、恐怖を自分たちの外におくこと、怪奇現象を嘘だと知りつつ、「それじゃあつまらねぇ」と「見えないもの」「いないもの」も「いるもの」として楽しむ文化、そうすることで日常を豊かにして、さらに自分たちの精神を守る生活をしていたのではないでしょうか。

 

これは、現代に生きる私たちも見習えるかなと思います。

妖怪の所為にすることで、自分にも、そして人にも寛容に、優しくなれるのではないかと思います。

 

「あーあ、やる気ないなぁ、妖怪につかれたかなぁ?」や「カバンにいれた定期がない!?妖怪の仕業か?」や「こんなところに、なぜこれが...まさか、妖怪!?」という考え方をしてみてはどうでしょうか。「あの人今日機嫌悪いなぁ、まさか、妖怪に!?」なんて。

いないとは知りつつも、どこかで「まさか?」と考える自分、そしてその現象をこっそり起こしている妖怪の姿を想像して、そのおかしさに「ふっ」と笑えると思います。

 

「妖怪リモコン隠し」や「妖怪イヤホン絡ませ」なんていうのも現代の妖怪で存在しているかもしれませんね。

 

でも、あんまり妖怪の所為にしすぎてもダメですよ? 

「寝坊...!?まさか妖怪が...!?」

「レポートが白紙!?まさか妖怪が!?」

「ダイエット中なのにお菓子に手が...!まさか妖怪が!?」

 

妖怪の所為にするのも、ほどほどに。

オススメの江戸妖怪本。

江戸の化物――草双紙の人気者たち

江戸の化物――草双紙の人気者たち

 

 

 

 アダム・カバットさんの本は授業でもかなり紹介されました。

学術的に妖怪を研究されています。 

いつかこの方の紹介まとめも作りたいと思います。(いつになるやら)

 

なかなか書かれなかったとしたら、「妖怪まとめるのめんどくさい」の所為だと思ってください。

 

ちゃんちゃん。