ユーモアとは、<「にもかかわらず」笑うこと>
以前池上彰さんが、新聞を読みなれていない人は、一面にあるコラム欄だけでも読むといい、とおっしゃっていました。
朝日であれば「天声人語」、読売であれば「編集手帳」、一面の左下の方にある、小さなコラム欄のところです。
ここのコラム欄は、その新聞社の中で一番文章が上手い人、エース記者が書く欄だから、とのことでした。
それを聞いてから、この欄だけはなんとなくですが、いつも目を通すようにしています。私の家は読売を取っているのですが、この「編集手帳」欄、最初の方の書き出しから最後へのオチがとても上手く書かれている「なるほどなぁ」「うまい!」となる日の記事もあれば、「今日は無理やりだな」「他に書くことなかったんかい」なんて記事の日もあったり。笑
また、こんな小さな記事の中に信じられないくらい教養がちりばめられている時もあり、読む時はとても勉強になるし、密かにどんなオチに繋げるのか、といつも楽しみにしています。
その「編集手帳」の中でたったひとつ、ずっと切り取って持っているものがあります。
今日改めて見たらもう5年以上も前!
部屋の壁にずっと貼っていて、たまに見返すのですが、今見ても新鮮な気持ちで読めるものです。
その「編集手帳」の書き出しは、
ユーモアとは、<「にもかかわらず」笑うこと>だという。
ここに改めて書き起こしてみます。
ユーモアとは、<「にもかかわらず」笑うこと>だという。ドイツの哲学者、アルフォンス・デーケン氏が著書に書いていた。つらいことがあり、苦しいことがあり、にもかかわらず笑うことだ、と。
フランスの作家、ジュール・ルナールも<ユーモリストとは不機嫌を上機嫌にぶちまける人のことである>と語っているところをみれば、ユーモアとはきっと、涙や冷や汗を養分にして咲く花のようなものなのだろう。
「にもかかわらず」にも限界はある。児童の自殺、尖閣、北朝鮮...ユーモアの花も咲かせようがない出来事がつづく。咲かせようとして、しくじり、閣僚をやめた人もいる。世の中には笑い欠乏症に感染しつつあるようである。
サンタクロースに世界共通の笑い方があるとは知らなかった。「ホッホッホー」というらしい。本紙の東京版が福祉施設などを訪問するボランティア向けに開かれた”サンタらしさを学ぶ勉強会”の模様を伝えていた。
おなじみの衣装に白いヒゲ、正調サンタ笑いの聞こえてきそうな写真が添えてある。小さな記事に心惹かれるのも時世ゆえか。こんなに笑いの恋しい冬もない。(2010.11.26)
そういえば、笑わせようとして言った発言で閣僚やめた方いましたね。もう名前も忘れてしまったのですが...。
そして5年も前の記事ですが、今日の記事かと思うくらい情勢も一緒ですね。
結局、世の中は悩みは尽きないし、国同士は緊迫しているし、政治家は失言して辞めるしで、変わらないんだなぁと思います。
今年は年が明けてから怒涛のニュース、いいことばかりではないものも多いですが、この「にもかかわらず」笑う、という精神で、生きていきたいものです。
にしてもやっぱりこの欄の人、文章うまいなぁ。
自分で書き起こしてみて、改めて実感しますね。
今日のコラム欄、まだ読んでませんが、多分あの日のことが書いてあるのでしょう。
辛いことは辛いままですが、それでもユーモアを忘れずに日々過ごしたいですね。
私が大好きな江戸の精神も、ここに通じるなと思います。
ちなみに私はユーモアを大事にしすぎてよく失言しています。政治家にはなれませんね。
…いや、むしろそういう意味では逆に向いているのかもしれません。
みなさんも、機会があれば読んでみてください。
特別な記事が、ある日ふっと見つかるかもしれません。
4月から哲学科へ入る君へ
君、そこの君。聞いたよ、哲学科へ入るんだってね?理由は?
なるほど、倫理が好き、宇宙の真理を知りたい、自分の中の疑問を突き詰めてみたい、研究者になりたい、そうか、ちゃんと理由があるんだね。素晴らしい。
え?無い?無くても哲学科は素晴らしいところだ。
何はともあれ、入学おめでとう。
え?入る予定もない?でもとりあえず哲学に興味があれば構わないよ。
素晴らしいことだ。
君に一つ教えてあげよう。私が行っていた大学の哲学科は一学年80人くらいが毎年入学する。そして卒業するときは、70人くらいだった。いや70人は確実に切っていた。
ちなみに留年率は文系で上位だった。おそらくだが、一番...と聞いたことある。
まぁ、でも君が入学した大学は違うかもしれない。
ただ、君がもし私と同じように哲学科へ入ることを何かふわふわした大きな期待と共に入ろうとしているのであれば、老婆心ながら言わせてもらう。
ほとんどの場合、哲学科へ入学するということは、それすなわち
続きを読むゴッドブレス、辛酸なめ子。
お久しぶりのブログです。10月までは守っていた一ヶ月1記事を颯爽と無視してから2ヶ月。遂に沈黙を破り更新です。
2016年、最初の記事は、そう、辛酸なめ子女史について。
誰?と思った方、大勢いるかもしれません。
辛酸 なめ子(しんさん なめこ、1974年(昭和49年)8月29日[2] - )は、日本の漫画家、コラムニスト[1]。女性メディア・アクティビスト[3]。東京都千代田区生まれ埼玉県育ち。血液型A型。愛称は、「なめちゃん」。武蔵野美術大学短期大学部デザイン科グラフィックデザイン専攻卒業[1]。
(Wikipediaより引用)
と、こんな感じで紹介されています。漫画家というよりコラムニストの印象の方が私には強いです。何故新年一発目からなめちゃん(早速愛称で呼び始める)を紹介するのか。
なめちゃんの日常があまりにも面白いから。
これにつきます。なめちゃんの日記を読んでいると「どうしてそっちに行くの」と心配しながらも 、吹き出してしまう、そして時には意地の悪い笑みを浮かべてしまう…。
「おかしみ」という言葉がぴったり。
でもそういう文章を書く方ってなかなか珍しいと思いませんか?
そもそも私が辛酸なめ子(以降なめちゃん)を知ったのは、10年ほど前、爆笑問題のばくもんとかなんとかいう週末のゴールデンタイムにやっていたバラエティ番組でした。(レイザーラモンHGがブレイクした番組です。番組紹介適当過ぎ。)
そこに出ていた辛酸なめ子さんの印象は「なめちゃん、なめちゃん」と言われてキョドりながら色々な企画に出ていた人というイメージ。とにかくいつもキョドっていたイメージです。(紹介最低すぎますが、尊敬しています)
なめちゃんがエッセイストということは知っていましたが、一度も著作を読んだことがなく、何故か最近になって図書館通いを始めた際に見つけたのが下記の著作。
仕事を辞めるにあたって、自立しようと思った矢先、「女一人で生きていけますか?」という表紙の文言に惹かれ借りたのですがまったく生きていけそうにない内容でした。
それもそのはずで、インタビューしているのはサロネーゼやカバラ研究者、書き文字師や、普通の職業ではない人ばかり。しかもなめちゃんのキョドり具合、下から目線のディスり具合で、どの人もとても怪しい職業に見えました。
でもその文章を読んで、「なんなの、なめちゃん、めっちゃ面白い」と思ってしまい続け様に著作を読みまくりました。
こちらは、なめちゃんが25歳〜27歳のときに書いたWEB日記を収録したもの。実家を出て、なぜか一人暮らしのマンションを購入。(安いところを文句をつけて値切りまくって売値から更に300万円ほど安くしてもらっていました。最強か)
面白かったのは、この頃のなめちゃんがめっちゃ尖っていたこと。
駅員さんと戦って勝った話や芸能人ディスりは圧巻。
先ほど紹介した「サバイバル女道」の時は、毒が滲みでながらも、丁寧な口調で自分を卑下しつつだったのに、こちらは思い切り毒を吐きまくり。名指ししまくりで、なめちゃんの若さが滲みでています。「⚪︎⚪︎と⚪︎⚪︎は人格が破綻した顔をしている」と某有名司会者を3名ほどディスっていました。
松た⚪︎子も松嶋⚪︎⚪︎子も同様に容赦なくディスります。
この「自立日記」と「サバイバル女道」を同時に読んでいたので、「大人になるとはこういうことかぁ」となめちゃんの毒をうまく隠した文章を読んで大変勉強になりました。
そして辛酸なめ子、なめちゃんの特徴といえばなんといっても「スピリチュアル」。どの著作でもやたら霊に悩まされています。
ところが不思議なことに、めちゃくちゃどっぷりスピリチュアルなのにどこか距離を置いた文章が面白いです。なんでもかんでも「霊の所為でしょうか」とするあたり、なめちゃんがいかに幼少期から霊に脅かされてきたのかが分かります。むしろここまで霊がこの世に存在するのかというほど。私たちの分までなめちゃんが霊を一身に背をってくれているのかもしれません(合掌)
- 作者: 辛酸なめ子
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これも面白かった。でも内容をほとんど覚えていません。
霊の仕業でしょうか。
けれど、スピリチュアルといっても、なめちゃんの場合は違う次元に行くことが主らしく、下記の日記の方でも、そのために徳を積みつつもまったくアセンション(ググってください)する気配がありません。
なめちゃんがやたらお祓いや霊を気にするので、私も影響され、以前買ったパワーストーンの除霊用のセージに火をつけて部屋で焚こうと持って行ったら、部屋に入った瞬間、火が消えて少し怖くなりました。でも、次の日から運が良くなったので効いたのかもしれません。(怪しすぎますね)
色々なスピリチュアルのセミナーへ行っても一向にアセンション(ぐぐってない方へ:アセンションとは違う次元に行けるくらい高尚な存在になることです)しないなめちゃん。どこまでも物欲と戦いながら、色々なものをどこかで毒を出して攻撃しながら、戦いながら生きているなめちゃん。
ここで2012年時点、大人になった辛酸なめ子、なめちゃんの文章がどういったものか紹介します。
2011年8月26日に書かれた「オープンマインドブログに挑戦」というタイトルの一部を抜粋します。
夜は、友人、知人が数人でプレ誕生日会を開いてくださるという恩恵にあずかりました。(中略)朝から取材が続いていたため体力が尽きて途中で失礼しました。こうやって中座するつきあいの悪さが友人と疎遠になる要因です......。最近、上地雄輔ブログにはまっていて、社交的でオープンマインドになるためには、彼のような人格を表ういさせなければならないと感じています。なんとかテンションを挙げつつ陶酔して彼のようなブログが書けたら、もっと友達が増える気がしています。そして挑戦してみます。
荒川を越えて、東京にでてきて約10年
でも、電車で橋は渡れても、心の荒川は越えられな
100人、200人、300人と知り合っても、まだ私と皆の間には深い川が流れてる
A型だからノリが悪くて、次第にカラオケにも焼肉にもさそわれなくなった
ネットでのつぶやきも空っぽの洞窟に吸い込まれて、ただモニターの前で楽しそうな飲み会レポートを拳を握って眺めてた
でも大雨の中、友達が誕生日会を開いてくれた
靴下が濡れていても、それを感じないくらいHOTな話題で
元気&やる気をもらって
みんな同じ人間で、何十兆個もの細胞でできていて、こうして同じ場所につどってる
そんな奇跡がよぎるたび、神様ありがとうという気持ちがこみ上げた
私はひとりじゃない、深呼吸とともに、そう確信した夜
ブレない思いを新たに、これからもファイトです‼︎
どこか毒を感じるのは私の心が汚れているからでしょうか。
この次は「陰謀論にまみれて」という日記、2011年9月3日に書かれたもの。
ベンジャミン・フルフォードの陰謀論の講演会へ。世界はサバタイ派ユダヤ人によって支配されていて、人類削減計画が進められ、生き残った人もユダヤ人の奴隷にされてしまうとか、最初の10分で恐ろしいことが暴露されました。なぜか60代前後の女性も多くて、前の席の女性二人は、黒飴をナメながら「ロスチャイルドの力は強大なのね〜」などと陰謀トーク。前にいる首にタトゥーが入ったいかつい男性に話かけて質問したりして積極的でした。他にも、「アルゼンチンに雪が降ったのは気象兵器ですよね」とか、「和歌山の自身は人工地震だと思います」とか、地震兵器や気象兵器について盛り上がる人々が……。ベンジャミン氏は「陰謀論という言葉を出すと、頭がおかしいと思われがちですが、実際は世の中は陰謀だからなんです!」と強い口調で話していました。(中略)
如何でしょうか。こんな感じで淡々とスピリチュアル的で、どこか諦めと確かな毒を含んでおり、それでいて消せない優しさがにじみ出ている文章...。
なめちゃん!!!(突然叫ぶ)
なめちゃんは散々自分のことを卑下しながらも、間違えて乗ってしまった特急列車で降りろと言ってきた車掌さんに対して中指を立てながら呪詛を唱え、降りずに空いている席に座り続けていい権利を勝ち取るなど、違う方面のメンタルの強さを発揮しています。いや、むしろメンタル最強だろ。
なめちゃんのツイッター。
アカウント名がgod bless namekoのあたりでもう爆笑。大好き。
(god bless youというのは「神のご加護がありますように」という意味。主にくしゃみをした人に言います)
そしてこちら、まだ次元上昇に挑戦している日記。
それにしてもなめちゃんの著作を読んでいるというと大抵の人が「辛酸なめ子?知ってる!」ということ。
でも皆読んだことないみたいです。
うちの母(60代)もしっていました。「辛酸なめ子!?有名やん!」とか言いつつ一作も読んだことのないことからして、なめちゃんの名前のつけ方は中々いいかもしれません。誰も読んだことないけど、皆が知っている。まるで「坂口安吾」や「森鴎外」のような存在でしょうか。言い過ぎでしょうか。ですね。
なめちゃん、それにしてもキョドりながらも、やたらとおしゃれパーティーに行っているのが非常に羨ましくなりました。ただ、そこでも誰ともしゃべらず帰っていたのが気になりましたが、とにかく、エッセイがかなり面白いのでオススメです。
これからもなめちゃんの著作を読んでいこうと思います。
とりあえず今読んだ中で一番お勧めなのはやっぱり自立日記ですね。
新年一発目のブログ記事がなめちゃんの記事ということで、なんだから私も徳を積みつつ、今年はアセンションの年にしたいと思います。
酔っ払いながら書いているので、明日になったら後悔しているかもしれません。
アセンションを調べた方、これからも友達でいてください。私は怪しくありません。
今年もどうぞよろしくお願い致します。
「これは自分の所為じゃない」という優しい生き方ー妖怪と江戸の精神構造ー
江戸時代がどうして好きかは前回の記事で語りました。
江戸時代が好きなったきっかけのひとつ、大学時代に受けた怪談文学の授業で習った、江戸時代の精神構造の高度さの魅力を、今回は書いていきたいと思います。
私が受けた授業の受け売りで、かなーり独断と偏見に満ちています。少しでも私が魅力を感じている江戸時代の精神が伝われば幸いです。
江戸時代の人は、生き上手。
現代の私たちも取り入れて、この世を思い切り楽しみましょう。
「幽霊はいない」と知っていた江戸の人々
怪談文学で先生がよく言っていたのが「君たちさ、江戸時代よりも今の方が進んでると思ってる?それ完全な間違いだから!」というものでした。
「進歩史観」、これは現代、今の時代の方が、昔よりも進んでいる、という考え方のことです。しかしこれは、かなり高慢な考え方ですね。ところが現代に生きる私たちは、この「進歩史観」を無意識のうちに持っていたりします。
先生がよくおっしゃっていたのは「江戸時代の精神構造はかなり高度。平成になって、日本はやっと江戸時代の水準に戻ってきつつある」ということです。これには賛否あると思いますが、江戸時代の精神構造が高度だったのは江戸時代を学ぶにつれて納得しました。
まず、昔の日本で幽霊は信じられていたのか?ということについて。
現代は科学が市民権を得て、超常現象などは科学などで説明がつくようになりましたよね。では、科学が一般的でなかった江戸時代では幽霊は信じられていたのでしょうか?
信じられていました。
ただし、「嘘もの」だと分かった上で、信じられていたのです。
私が習った授業では、怪談文学の中で、「幽霊は嘘である」と江戸時代の人が分かっている記述をいくつか見ました。例えば「雨月物語」、ここにでてくる話では、化け物や幽霊の元は「人間」であるという話がいくつか出て来ます。
さらに、江戸時代には幽霊を作るおもちゃが開発されていました。
つまり「ユウレイは作れる!」(聞いたことある。これもある意味「虚構」ですね笑)というスタンスで生活してたんですね。
さらに江戸時代は妖怪ブームが起きたのですが、妖怪ってつまりキャラクターです。
キャラクターブームが起きたと考えると、現代のゆるキャラブームなどにも通じますよね。ポケモンなども妖怪の一種と言えます。
そして何と言っても「妖怪ウォッチ」!
江戸時代の精神構造として「悪いものは自分以外のもの」という考え方があります。
これ、悪いことは人の所為にする、って意味じゃありませんよ?
あくまで「自分の所為ではない」という考え方です。
悪いものや怪奇現象は、妖怪が起こしたこと、という考え方をしていたのです。妖怪ウォッチも「やる気がでない」と思ったら妖怪につかれていた、なんてエピソードがありました。まさにそれ!!
「怖いもの、よく分からないものは、全部妖怪の所為!」
この考え方は、後で書いていますがとても重要なことなんです。
もちろん、まるっきり妖怪を信じていたわけではありません。
以前の記事でもお伝えしましたが「虚構」と知りつつ、楽しんだのです。
授業ととても似ている内容が書かれています。読み物として面白い。
妖怪をキャラクター化した、姿を描いたのはこの鳥山石燕。現在の私たちが知っている妖怪の姿はほとんどこの人が描いた絵に基づいています。
こちらは、元祖妖怪画家の鳥山石燕の画集。文庫サイズ。
「これは自分の所為じゃない」という優しい生き方
さて、タイトルの「これは自分の所為じゃない」という優しい生き方、についてですが、「自分の所為じゃない」という気持ちを持って生きるのは「優しく」なれる生き方なんです。
どういうことかというと、分かりやすい言葉が「罪を憎んで人を憎まず」です。
事柄と人間をイコールで結ばない生き方。
江戸の人が幽霊、妖怪を「虚構」であると分かっていながら「居るもの」として信じていたのは、楽しいからだけではありません。おそらくですが、「無意識の防御」だったんです。
まず、何か悪いこと、分からないことが起きた時、人は恐怖や不快感を感じます。江戸時代はそれを「妖怪の所為」にしていました。
小豆洗いという妖怪がいますよね。
意味わかりませんよね。
川で小豆洗ってるだけの妖怪です。
意味わかりませんよね(二回目)。
でも正直、川で突然小豆洗ってる音が聞こえたら、若干怖いですよね。
だって誰もいないはずなのに、ってなるとなおさら。
ところが!
「...あれ?これ、小豆洗いじゃね?」
というふうに原因を知っていると、不思議と恐怖というのは薄れます。怖いけど「あ、これ知ってる現象かもしれない」というのは、精神の安定にとって、かなり大事なことです。
しかし、明治時代になり「幽霊や妖怪などはいない。それはすべて精神病だ。弱った神経が見せる病だ」と考える風潮になったのです。妖怪や幽霊を信じるよりも「精神病」という名前の方が、説得力はあります。そちらの方が「有り得る」話ですからね。なんだか、響としても賢そうにも聞こえますね。
実はこれ、とても危険な考え方なんです。
江戸時代は、恐怖を自分の外に置いておくことができました。妖怪や幽霊の所為にすれば、恐怖の原因は自分ではなく、外にあることになるからです。
ところが、明治以降の「幻覚を見るのは精神が病んでいるから」という考え方は、一見解決しているように見えて、実は恐怖を自分の中へ取り込んでいるのです。
そうなるとたまったもんじゃない。「悪いのは自分」という考えになり、恐怖は自分の内側へ入り込んできてしまいます。こうなったら、もう対処できません。だって自分の中に入り込んでしまったら、外にあるものより格段に対処が難しくなるからです。
興味深いのが、この「怪奇現象は精神病説」を明治期に唱えていた落語家、浮世絵師、作家などの大勢が「精神病」になって、亡くなられているんです。
前回の記事で江戸時代の人が合理的だったというのはこの部分にあります。
私が江戸を好きな理由(ワケ) - るきうす、あんなの三文オペラ
江戸の人々がはっきりと意識していたかどうかはわかりませんが、恐怖を自分たちの外におくこと、怪奇現象を嘘だと知りつつ、「それじゃあつまらねぇ」と「見えないもの」「いないもの」も「いるもの」として楽しむ文化、そうすることで日常を豊かにして、さらに自分たちの精神を守る生活をしていたのではないでしょうか。
これは、現代に生きる私たちも見習えるかなと思います。
妖怪の所為にすることで、自分にも、そして人にも寛容に、優しくなれるのではないかと思います。
「あーあ、やる気ないなぁ、妖怪につかれたかなぁ?」や「カバンにいれた定期がない!?妖怪の仕業か?」や「こんなところに、なぜこれが...まさか、妖怪!?」という考え方をしてみてはどうでしょうか。「あの人今日機嫌悪いなぁ、まさか、妖怪に!?」なんて。
いないとは知りつつも、どこかで「まさか?」と考える自分、そしてその現象をこっそり起こしている妖怪の姿を想像して、そのおかしさに「ふっ」と笑えると思います。
「妖怪リモコン隠し」や「妖怪イヤホン絡ませ」なんていうのも現代の妖怪で存在しているかもしれませんね。
でも、あんまり妖怪の所為にしすぎてもダメですよ?
「寝坊...!?まさか妖怪が...!?」
「レポートが白紙!?まさか妖怪が!?」
「ダイエット中なのにお菓子に手が...!まさか妖怪が!?」
妖怪の所為にするのも、ほどほどに。
オススメの江戸妖怪本。
アダム・カバットさんの本は授業でもかなり紹介されました。
学術的に妖怪を研究されています。
いつかこの方の紹介まとめも作りたいと思います。(いつになるやら)
なかなか書かれなかったとしたら、「妖怪まとめるのめんどくさい」の所為だと思ってください。
ちゃんちゃん。
私が江戸を好きな理由(ワケ)
実生活での知り合いの人は、ご存知の方もいるかもしれませんが、私は江戸時代というものが大好きです。特段知識が豊富という訳でもありませんが、小さなうんちくなどはたまに喋っています。
日本の歴史は、古代、中世、近世とどの時代も魅力的なものが多いですよね。平安時代は安倍清明がいたし、鎌倉時代や戦国時代は様々な武将が活躍してたくさんのドラマがありました。幕末だってとても素敵。素敵すぎて幕末ものの物語などを読むと、どうしても胸がきゅーっと切なく苦しくなります。笑
ただ、私が江戸時代を好きなのは、「物語」としてではなく、「時代」としてです。
どうして好きなのか、と言われると迷ってしまう。昔から好きだった記憶があります。割と意識したのは、大学時代に下記の本を読んでからでしょうか。
面白くて面白くて、「江戸時代ってやっぱりすごい!」と思ったのを覚えています。上記の本の内容は、江戸時代に読まれた「黄表紙」という風刺物語の解説が書かれた本。一枚のページに滑稽な物語が書かれているのですが、そこに書かれた絵に隠された風刺を読み解いて楽しむ「黄表紙」。その遊び心満載で、教養にあふれた本を庶民が多く楽しんでいたと聞いて、とても驚いたのを覚えています。
黄表紙に隠された風刺は、ちょっと考えたくらいじゃ現代の私にはわからないけれど、滑稽な物語に実はこれこれこういうものが隠されて、と解説を読むだけでもそれがまた楽しくて「へぇー!なるほど!」と膝を打つばかりでした。
そこから「江戸時代の人ってこんなものを楽しんでしたのか。素敵だなぁ」と思い、大学四回生の時に受けた江戸文学の授業でさらに好きになりました。怪談文学についてで、それは長くなるのでまた別の機会にじっくり書きたいのですが、私が江戸を好きな理由をさらに作ってくれたのが、杉浦日向子さんです。
杉浦さんは漫画家で、そして江戸時代の風俗研究家として数々のエッセイや本を出されています。この本など、以前は良く本屋に並んでいたので見た事がある方もいるかもしれません。
「お江戸でござる」が大好きだった私は、杉浦さんの本を数冊読んだあとに、解説を担当されていたと知りました。小さいころから、まんまと杉浦さんの江戸惚れに触れて、いつの間にか私もすっかり江戸に惚れてしまっていたのです。杉浦さんが書かれる江戸の人は、とても魅力的です。でもそれって強い魅力ではないんです。
私が大好きな、杉浦さんが江戸の人について現した言葉があります。
それが、「うつくしく、やさしく、おろかなり」です。
こんなにも昔の日本人を素敵に表現した言葉ってないんじゃないかと思います。うつくしくて、やさしくて、おろかだった私たちのご先祖様。私はとても素敵な響きだなぁと思いました。
この最後の「おろか」という言葉が特に私には一番心に響きました。「おろか」とは決して馬鹿にしている言葉ではありません。ここでいう「おろか」とは、もっと美しくて優しくて、切ない響きを持っている気がします。
つよくも、ゆたかでも、かしこくもなかった頃のわたくしたちの国に、うつくしく、やさしく、おろかな人々が暮らしていた。しんじられないかもしれない。けれどそれはほんとうのこと。そして、きっと、ああ、そうだったのかもしれない。たぶん、そうだったのだ、とわかる。
これは、杉浦さんの著書『うつくしく、やさしく、おろかなり 私の惚れた「江戸」』という本に書かれている一節です。
うつくしく、やさしく、おろかなり―私の惚れた「江戸」 (ちくま文庫)
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近頃はニュースなんか見ていると日本人、ちょっと頑張りすぎているなぁと思うことが日々あります。やらなくていい仕事をして、悩まなくていいことに悩んで、私自身も、仕事や悩みに忙殺されて、抜け殻になりそうな時もあります。
でもそういう時に、ふっと江戸時代の人のことを考えるんです。
江戸時代って、別に皆楽しく遊んで暮らしていたわけじゃありませんよ。今の時代より、何倍も過酷な生活だったと思います。水洗トイレも高度な医療も無い、助かったはずの命は助からなかっただろうし、自然災害も何度もありました。火事は何度も江戸を焼き尽くしたし、コレラが大流行りしても治す薬もなかったはず。冬は暖房が無いから、蒲団に包まったまま朝には凍死していた人もいたそうです。
そんな過酷な時代だったけれど、江戸時代の人はとても楽しそうです。それはきっと辛いことが何度も起きた後の「諦め」を越えた生き方をしていたからじゃないのかと思います。
江戸時代の人の考えに「人間一生糞袋」という言葉があります。どうせ生まれて死ぬまで、糞袋なんだから、せっかくなら難しいこと考えずに人生を楽しもう、そういう気持ちがあったみたいです。だから、江戸時代ってすごく娯楽が多いんですよ。歌舞伎も人形浄瑠璃も落語も、俳句も、花見も、花火も、お祭りも、十五夜も、お正月も、怪談話だって、江戸時代の人はとにかくなんでも楽しみました。
270年間、戦争がなかったのも大きいと思います。暇だったんでしょうね笑
だからものすごい遊びも生まれていました。
それが「枯れた野を見にいく遊び」。
これ、花見と一緒です。でも枯れている野を見て、その枯れ具合を楽しんだそうです。笑
・・・一体何が楽しいんだ。(ちなみにこれは男の人の遊びだったようです。笑 当時は女の人にも「何が楽しんだか」と言われていたとか。時代は変わっても男女は一緒ですね。)
でもきっと江戸時代の人はそこにさえ楽しみを見出したんだと思います。こういう姿勢を、私はすごく見習いたいなぁと思うんです。
江戸時代に行きたいか?って言われると「行ってはみたい」ですが、現代が一番です。それは杉浦さんも言っているんですが、理由は分かる気がします。江戸時代が好きなのは「自分が生きている現在を遊び楽しみ尽くす方法」を江戸時代の人々が知っていたから。
江戸を知れば知るほど、「現代を楽しもう」という気持ちが湧いてくるのです。
それに江戸時代の人はふわっと楽しんでいたわけでもなく、とても頭が良いという印象。ここでいう頭の良さは勉強ができるということよりも「合理的」にものを考えられたということです。
「合理的」にモノを考えながら、それを超えて「虚無」、つまり「嘘」を「嘘」として楽しむ、そういう心で生きていた江戸時代の人々はとてもかっこいいなとも思います。
それは美しい「見栄」にもなります。「宵越しの銭はもたねぇ!」とは江戸の美学ですが、これは持ちたくても持てなかったんですね。でもそれを「宵越しの銭はもたねぇ主義なんだ」と見栄をはる。「もたないんじゃなくて持てないんでしょう」なんて野暮なツッコミはいれない。こういう嘘を、美学として捉える。そうすれば人生も少しはカッコよくなるんです。生き上手だなぁ、江戸人は。
つまり、皆大人なんですよね。
頑張りすぎずに「どうせ人間一生糞袋だ!」と肩の力を抜いて、日々の人生を楽しむことが大事だと思うのです。それが難しくなってきた世の中ですが、私たちは江戸時代の末裔。サボりたくてサボりたくて仕方がなかった人たちの末裔です。笑
のんべんくらりと生きたいなぁと思う今日この頃です。
なんだか此の頃は皆が皆、正義感に燃えていたり、国を憂いていたりして、苦しいなぁと思うことがあります。「無責任な生き方」って庶民の特権だと思うんですけどね。まぁ私もなかなか「無責任」になれないところが大きいんですが。
ちなみに現代は江戸時代に一番精神構造が近い時代だそうです。
今年は戦後70年でしたね。このままあと210年間、戦争が起こらず、江戸時代を超えた時代が来て、奇想天外な遊びが日本で生まれてくれないかと期待しています。
現在もゲームやアニメや娯楽に優秀なのは、江戸時代のDNAなんだろうなぁと思います笑
まぁ、そんなこんなで、私がやたらと「江戸!江戸!」と言っている理由が伝われば幸いです。
杉浦さんの『うつくしく、やさしく、おろかなり』に下記の記述があります。ここがとても素敵なので、是非読んでいただきたいです。
なんのために生まれて来たのだろう。そんなことを詮索するほど人間はえらくない。三百年も生きれば、すこしはものが解ってくるのだろうけれど、解らせると都合が悪いのか、天命は百年を超えぬよう設定されているらしい。なんのためでもいい。とりあえず生まれて来たから、いまの生があり、そのうちの死がある。それだけのことだ。綺堂の江戸を読むと、いつもそう思う。
うつくしく、やさしく、おろかなり。そんな時代がかつてあり、人々がいた。そう昔のことでない。わたしたちの記憶の底に、いまも眠っている。
江戸の昔が懐かしい、あの時代は良かった、とは、わたしたちの圧倒的優位を示す、奢った、おざなりの評価だ。そんな目に江戸は映りやしない。
私がなぜ江戸に魅せられてやまぬのかを、人に語るのはむずかしい。惚れた男が、相馬の金さんのようなやつだった場合、親きょうだいに、かれをなんと説明したら良いのか。それと同じ気持ちだ。
いい若いもんで、ぶらぶら暇をもて余している。とくに仕事はない。たまに友達とゆすりたかりをする。ちょくちょく呑んで暴れるけれど、喧嘩は弱い。でもかあいい。なによりだれよりかけがえないのだよ。
私が惚れだ「江戸」も、有り体に言えば、そういうやつだ。
江戸ってこういうやつなんです。
どうですか、仕方のない、愛しいやつだと、思いませんか。
著者の杉浦さんは、すでにお亡くなりになっています。
ガンで亡くなられたのですが、長年解説を担当されていた「お江戸でござる」を降板された時「長年の夢だった世界一周旅行に出る」と言っていたそうです。もちろん、それは嘘で、亡くなってから病気が公表されました。
江戸時代に惚れた彼女は、だれよりも「粋」な人だったのだと、これだけでも伝わりますよね。
疲れたらサボりましょう。
私たちはサボり上手、遊び上手の、江戸時代に生きた人々の末裔なんですから。
人間一生糞袋、悩んだら、江戸時代を訪ねてみるのもいいと思います。
江戸時代はいつでも寄れる、「現代の隣町」です。
私が持っているのはこちらの単行本の方。なんだか杉浦さんのこの本が一番好きなので、単行本で持ちたくて買ってしまいました。
日本がもっともっと江戸時代の時のように、いろんなものを楽しめるようになればいいなぁと思います。
現代の日本は、つよく、そしてゆたかです。
でも、うつくしく、やさしく、おろかな面も、もう少し思い出してもいいんじゃないかなぁと、日々のニュースを見て、考えてしまいます。
江戸時代って、私は掛け替えのない日本の財産だと思っています。
みなさんも興味がわいたら、隣町の江戸まで、どうぞ足を伸ばしてみてください。
歯医者のススメ②
歯医者通いをきちんとしている私。
前回はそのきっかけとなった出来事を書きましたが、
今日は家でもオーラルケアをしっかりしようと思ったきっかけを書きます。
あれは友人が歯医者へ行ったという報告を聞いていた時でした。
その時、友人が放った
「私、歯周病になってた」
という言葉にかなり衝撃を受けました。
し、歯周病!?あれって80歳くらいの人がなるものじゃないの!?と驚愕。
もちろん友人は20代なので、私としてはその年で!?と大ショックだったわけです。
そんなこともあり、前回歯医者へ定期健診に行った際、先生に「何か心配なことありますか〜?」と聞かれた際、
「私って歯周病大丈夫ですかね?」
と聞きました。
そしたら先生は、肩にポンっと手を置き、
「⚪︎⚪︎さん、、、」
というから「心配しすぎだよ」といってくれるのかと思いきや
「歯周病はね、大人の人ならほぼ皆なるから^^君は初期だから大丈夫!^^」
と励まされました。
えーーーーーーーーーー(ノ゚ω゚)ノ
なっとるんかい!(ノ゚ω゚)ノ
また、恒例の帰ってから調べるという行為をしたら、やはり成人は結構な確率でなるそう...
でも思い返せば歯医者でのクリーニングで歯ブラシが血まみれになったあとらへんから歯の隙間が気になりだしたんですよね。。。
多分あの時に歯茎が腫れっぱなしで歯周病が発生、というか進んだのかと思われる。。。
というわけで私は今後も歯医者がよい、そしてオーラルケアを頑張りたいと思います。
みなさんも、歯医者へちゃんと行きましょうね!!
大人になってからは、怖いのは、虫歯だけじゃありません!!
歯医者、怖くないよ!
歯医者のススメ
歯医者、最後に行ったのはいつですか?
私は、今月です。というか、ちゃんと定期検診を受けています。(どや)
なぜなら、行きつけの歯医者がいるから。行きつけの歯医者がいるというのは心強いですよ。ちゃんと忘れたころにハガキで知らせてくれるし(知らせてくれる歯医者さんがいいですよ)、歯の不安も行くたびに先生へ聞けば解消されます。
そして歯医者へ通う理由がもう一つあります。それは、治療でのトラウマからです。トラウマがあるのに行くのは何故なのか、それはトラウマ体験を聞いていただければわかると思います。
そもそも私が歯医者へ定期的に行くきっかけになったのは「ゲリラ歯医者」。
ゲリラ歯医者とは: 予約なしで突然歯医者へ訪れること
※緊急時以外、絶対マネしないでください※
親知らずが生えてきて、抜きたいなぁと日々悩んでいた時、予約するため、というのもありましたが、近所の歯医者へ「あの...親知らず抜きたいんですけど...今日とか空いてますか?」と訪れたのが最初でした。
その時は少し待ちましたが、ラッキーなことに空いていたので、すぐ抜いてもらいました。綺麗に生えてたのもありますが、歯医者への滞在時間かなり短かったです。5分くらいですぐ抜いてくれました。
しかし、その際虫歯が見つかり次回以降治療をすることに。
歯医者通い\(^o^)/ハジマタ
これが、自覚症状なしなのに、結構深い虫歯でした。
歯、半分持ってかれたわ!!
そして銀で覆われる歯は恐ろしい副作用が。
先生 「銀だからね〜、なれるまで熱いのとか冷たいのはしみるよ〜」
普段から知覚過敏の私「(それは非常に困る^^)どれくらいの期間ですか?」
先生 「う〜ん、長い人だと半年^^」
/(^o^)\
その後、もちろん少しだけ冷たい洗面所の水も、熱いお茶にも恐怖する日々。沁みた。沁みた。めっちゃ沁みた。
というか歯を半分以上削られて精神的にもダメージ。しかも当たり前だけど進行した虫歯の治療は痛かった。
これに懲りて次からちゃんと定期検診したかというと、半年後、再び同じ歯科医院へゲリラ歯医者をした私(・ω≦) テヘペロ (※絶対にマネしないでください※)
この時は、普通の定期検診でしたが、歯石取ってもらった後、「次回はちゃんと予約してね!」と歯科衛生士さん、院長先生、受付の方に別々のタイミングで三回言われてさすがに反省。(遅すぎる)
しかも定期検診のハガキにまでしっかり「お電話でご予約ください!!!」と手書きで書かれていました。ごめんなさい。
それから歯が痛むと、あの半分削られた歯の恐怖が蘇り、事前に防ぐために通っています。ただ、それでも定期検診のハガキがきて、なんだかんだいけなかった時、私の真の歯医者通いのきっかけが出てきました。
それは「歯石取り」。
ある日、定期検診の予定を大幅に過ぎてから歯医者へ行った時、(ちゃんと予約していったよ)、いつものように歯石取ってもらったんですよ。
痛い。痛いし、口ゆすいだら、水が茶色い。
薬かな?とか思って、近くの台を見たら真っ赤な歯ブラシが。
「薬の色?^^」と思うくらい真っ赤に染まった歯ブラシ。
そしたら先生が来て検診。
一通り虫歯もないとわかったあと、心配なことある?と聞かれたので、「歯が痛いんですけど、虫歯本当にないんですか?」と聞きました。
先生「⚪︎⚪︎さん^^あのね、この歯ブラシ見て。これ全部血だよ^^」
私「え...薬か何かを塗った色かと思ってました」
先生「違いま〜す^^赤チンじゃありませ〜ん^^」(今更ですが、私がこの歯医者へ通っているのは先生の喋り方が面白くて癖になるからです。全盛期の狩野英孝みたいです)
先生「こんだけ歯茎が腫れてたら、そりゃ痛いよ^^だからちゃんとお掃除には定期的に通ってね」
帰り道、真っ赤な歯ブラシに衝撃を受けた私は、その場で歯石についてしらべました。
「なんで歯石取らなあかんのや!そもそも、歯石って削りとってるんちゃうんか!歯科衛生士さんのさじ加減やろ!」と思ってたら全然違った。
削り取ってなかった!超音波で自然に外れる仕組みになってた!!!!
歯石とりの動画は割とグロいのですが、勇気のある方は下記どうぞ。
グロいけど、綺麗に取れていくので、これ見たら絶対に歯医者行きたくなります。
私は動画を見ながら「え!!!!!そこ歯石!!!こんなに!!!?こわ!!!そりゃ血でるわ〜!!」と一人で大納得したから。
※多少のグロ注意(人様の口内なので...)
しかし、上の動画を見ても少しの疑問が。
「でも原始人も昔の人も歯石取ってなかったのになんで今取るの?!歯医者さんが儲けたいだけだからじゃ!?」ってなってました。
したら、いました。同じ考えの人が。
歯石は本当に取らないといけないのか?
(中略)
しかし、昔の人は歯石をとるなんてことをしていなかったので、歯石を
とることに対して違和感を感じます。
それとも、今と昔とでは食生活が違うので昔は歯石を取る必要が
なかったのでしょうか?
本当に歯石の除去は必要なのでしょうか?
回答:
歯科衛生士です。
歯石の除去は、絶対必要です。
昔の人と現代人との食生活が違うのは、分かりますよね。
昔の人は、甘い物は大変貴重な食べ物でした。
ですが、現代人は甘い物がそこらへんに沢山あってそれを食べます。
なので昔の人より現代人は、歯石が付き易いのです。
昔の人は今みたいに甘い物食べてなかったよね〜、そうだよね〜と納得。
そもそもあんだけ歯茎が腫れてたので、ここでしっかり通おうと思いました。
実はここから、直近で行った際にさらなる恐怖があり、これからも歯医者へ通い続けようと思ったのですが、長くなりそうなので次回にします。
皆、歯医者へ行こうね!!
進行しているのは、実は虫歯だけじゃなかったりするからね!!!
最近始めたデンタルフロス。。。
難し過ぎてまだまだ修行中です。